【前回のあらすじ】
大学3年生の夏休み、Canada Vancouverで短期語学研修プログラムに参加。
“ルーティーン”を少し離れれば通用しない英語。“生”の英語の前で、敗北宣言をした。
一方で卒業論文のテーマである「Chinese American」を、China townの視点から
絡めながら研究してみると面白いのでは、というヒントを得ていた。
話しは大学4年生の5月、就職活動が無事終了し、さらに県が主催して募集していた
『日中青年交流会 in大連』に欠員が出たため2次募集が開始されたところまで戻る。
就職活動も終了していたこともあり、割と軽い気持ちで申し込む。
書類選考と面接を経て約1か月。実家に合格通知が郵送されてきた。
そして2000年8月、中国に初めて降り立った。
実は『中国語を目指すきっかけとなった「あの一言」』という記事でもご紹介しているように、
その当時、英語一辺倒の私はあきらかに中国を見下していた。
その原因の一つは、皮肉にもそれまでゴールドラッシュ時の「Chinese American」の資料を
たくさん見ていた事があげられるかもしれない。なぜか中国の方は未だ辮髪をしているような
感覚でいたのだ。
更に、幼い頃残留孤児がよくニュースで取り上げられていたのが印象深かったからか、
あるいは山崎豊子氏の『大地の子』がNHKの特別番組で放映され、そのドラマを必死で見て、
涙したからか、とにかく私の頭の中の中国は1970年代でストップしていた。
そのため中国に足を踏み入れた瞬間、2000年の中国は今までの私が持っていた中国のイメージと
明らかに異なり、そのギャップにまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
またこの『日中青年交流会 in大連』のプログラムは、大連理工大学の学生との交流会も
準備されていた。この交流会こそが、中国への舵が切られる瞬間になる…。
3日目、最終日、グループディスカッション。テーマは「戦争」。さすがに重苦しい空気が流れる中、同い年の女子学生が放ったあの一言。
「60年前、中国と日本は戦争をしてよかったと思います。なぜならあの時戦争をしていなければ、私とあなたはこの交流会ではなく、戦場で会っていたかもしれないから。ここであなたに出会えて、本当に良かったです。」
その時最前列で聞いていた私は、瞬きさえもできず、立ちつくし、彼女をただただ見つめることしかできなかった。同い年の彼女、しかも中国側からそんな意見が出るなんて。今思い出しただけでも、うまく言い表せないこの感情。この国はこれから伸びると思った。こんな人財がいるのだから。彼女を、彼女の国をもっと知りたいと、心から思った。
書店には今も昔も、たくさんの中国関連書籍が並ぶ。でも翻訳されたもの、誰かが書いたものは、翻訳者、あるいは作家のカラーがついて客観的ではない。色もついていない、偏見もない、そのままの中国を知りたい。そのためには、自分の目で、自分の足で、自分の言葉で中国に向き合うしかない。「中国語!」中国語を勉強しよう。そしていつか自分の中国語で、この中国を感じたい。
(「中国語を目指すきっかけとなった『あの一言』」より抜粋)
中国。
それまで教科書の中でしか知らなかった国。
「外国=英語圏」「外国語=英語」としか思えなかった私に、衝撃を与えた国。
私が日本人として、教科書の知識だけで終わらせてはいけない歴史を持つお隣の国。
約2週間の『日中青年交流会 in大連』プログラムから帰国した私。
自分の将来について、再度考え始めていた。一方で大学卒業、就職の日が一日ずつ迫ってくる。
就職内定を辞退して、中国に留学したい。
そんな思いばかりが頭に浮かぶ秋。母親の一言が胸に突き刺さる。
「あなた、『留学したい』って口ばっかり。何も行動起こしてないわよね!」
何も反論できなかった。
その頃普及し始めたネット回線のISDN。「キュー、キュルキュルキュルキュル」という
音を聞きながら、母の言葉が頭でこだまする真夜中、必死で格安中国短期語学留学を探した。
すると年末年始を挟んで3週間のプランを見つけた。船での渡中のため全行程5万円。
上海理工大学で午前は語学研修、午後は自由行動。寮で宿泊するというプランだった。
今からアルバイトを始めれば、5万円とお小遣い分ぐらいは稼げるはず。
履歴書を書き終え、夜明けを待った。
就職活動以来のスーツを着込み、車を走らせることを約20分。
オープン間近の焼肉屋さんの窓に「求人」の張り紙が、貼ってあるのが目に入った。
駐車場に車を止め、道場破りのようにレストランのドアを叩き、飛び込み面接をしてもらう。
その場で「いつから来れますか?」とのお答えを頂き、「今日からでも」と答えた。
5時間後レストランの制服を着て、ホールで接客している私がいた。
冬休みに入った12月20日。中国に向けて私を乗せた船が、神戸港を後にした。
その名は『新鑑真号』。
神戸港・神戸ポートターミナル(兵庫県神戸市)、大阪南港・国際フェリーターミナル(大阪府大阪市)と上海港(中国)を結ぶ国際定期フェリーである。中国船らしく船内には麻雀室を備えている。船名の由来は、失明や遣唐使の難破など度重なる苦難を乗り越えて来日を果たした唐代の中国僧・鑑真。
先代の鑑真の代船として尾道造船で建造され、1994年に就航した。先代の鑑真は有村産業が運航していた飛龍を改名したもので、本船は航路初の新造船となった。
2004年1月、通算1,000航海を達成した。
20フィートコンテナ250本のシャーシを積載可能で、冷凍コンテナコンセントも80本分が装備されている。ルーズカーゴの積載、その他の車両航送も行っているが、自家用車は積載できない。
貧乏学生の旅。“お手頃価格”の代償は、時間で支払うしかない。
神戸港から上海港まで、なんと50時間。神戸港を正午に出航、次の次の日の午後に
やっと上海に到着する。しかも出航日は、あいにく海が大時化。
20キロ以上もあるスーツケースが、波に合わせ「ズズズー、ズズズー」と部屋の右へ左へ 。
2段ベッドが4セット、所狭しと設置されただけの洋室タイプの2等席。
引っ切り無しに襲ってくる吐き気と頭痛に悩まされながら、とにかくベッドの上で
眠れるようにと目をつぶっていた。
荒波を乗り越え、上海に無事到着。
母の一言に背中を押され、中国に飛び出してみたのは良いが、自分の名前さえも言えない。
発音のピンインを読むのがやっとという現実。それでも毎日心は浮き立っていた。
2000年12月31日。まもなく2001年、21世紀の幕開け。
それを記念して外灘(バンド)で花火大会が開催されると、聞きつけた。
授業が終わり夕方、バスで外灘まで。そこにはすでに迷子になりそうなほどの人だかり。
花火打ち上げは日付が変わる頃。「帰宅のバスはあるのか?」とふと頭をよぎる。
一緒に行った友人(彼女は割と話せた)が、交通局らしき人に聞いてくれた。
怒るように話すおじさんの顔を見ながら、必死に耳を澄ます。
一言さえも聞き取れなかった。
その瞬間、ふと悟った。
「まだ留学に来る時期ではない。きちんと準備をしてから来るべきだ」と。
それまで内定を辞退して留学するか、それとも留学をあきらめて就職するか迷っていた。
しかしこの語学研修できちんと答えが出た。
「大学を卒業したら就職しよう。もう両親のすねをかじることはできない。自分できちんと
軍資金を貯めて、それからこの中国に再挑戦しよう」
スッキリした気持ちで、帰国の旅路についた私。
そして春、桜の咲くころ、社会人としての新しい一歩を踏み出していた。
(次回に続く…)