私が中国語を始めたのは、第二言語習得の臨界期仮説の臨界期と言われている25歳を過ぎてからだった。
それでもどうしても中国語を習得したかったわけは、大学4年生の夏休みまで遡る。
山に若葉が芽吹き、ツバメが行き交う5月。たまたま目にした『日中青年交流会 in大連』の案内。
渡航期間が夏休みとあり、それまで英語圏ばかり目が向いていたが、「卒業論文のこともあるし、
行けるなら行ってみたいな」と軽い気持ちで応募。
論文と面接試験が実施され、運よく合格通知を手にした。
2000年8月、初めて降り立った中国。
それまで教科書と、テレビでしか知らなかった中国。
「まだまだ発展途上国でしょ」と見下していた中国。
いまだ多くの外国人が「日本=SAMURAI、HARAKIRI」と時代錯誤のイメージをもっているように、当時の私にとって「中国=辮髪、残留孤児、人民服」だった。
1978年に高らかに宣言された改革解放宣言を受け、
時代はちょうどイケイケ、ドンドンの高度経済成長期。
超高層ビル、建設ラッシュを目の前に、私が想像していた中国との違いに打ちのめされ、
自分の無知さに崩れ落ちそうになった。
そんな私にさらに追い打ちをかけたのが、日中青年交流会に参加していた中国側の大学生たち。
参加学生の多くは日本語学科、そして少数の英語学科の専攻だった。
当時の私は中国語は全く話せず、彼らとは日本語と英語で交流した。
日本語学科の彼らは、もちろん日本には行ったことがない。
さらに約20年近く前の中国。今と違い、ネットもまだまだ普及していないような時代。習得は教科書からという彼らの日本語。
日本人相手に流暢な日本語で意見を述べ、ディベートでは日本人学生を理路整然とした日本語で追い詰めていく。
3日目、最終日、グループディスカッション。
テーマは「戦争」。
さすがに重苦しい空気が流れる中、同い年の女子学生が放ったあの一言。
「60年前、中国と日本は戦争をしてよかったと思います。なぜならあの時戦争をしていなければ、私とあなたはこの交流会ではなく、戦場で会っていたかもしれないから。ここであなたに出会えて、本当に良かったです。」
その時最前列で聞いていた私は、
瞬きさえもできず、立ちつくし、彼女をただただ見つめることしかできなかった。
同い年の彼女、しかも中国側からそんな意見が出るなんて。
今思い出しただけでも、うまく言い表せないこの感情。
この国はこれから伸びると思った。
こんな人財がいるのだから。
彼女を、彼女の国をもっと知りたいと、心から思った。
書店には今も昔も、たくさんの中国関連書籍が並ぶ。
でも翻訳されたもの、誰かが書いたものは、翻訳者、あるいは作家のカラーがついて客観的ではない。
色もついていない、偏見もない、そのままの中国を知りたい。
そのためには、自分の目で、自分の足で、自分の言葉で中国に向き合うしかない。
「中国語!」
中国語を勉強しよう。そしていつか自分の中国語で、この中国を感じたい。
この思いがいつも胸の奥にあり、今日までこの炎が消えることなく、中国語の道を一歩一歩と歩んできた。
その後彼女たちとは、帰国後一通ずつ手紙のやり取りし、連絡が途絶えてしまった。
今思えば、当時まだまだ発展途上の中国郵便事情、無事に届かなかったのだと思う。
将来は社長になって、社会を良くしたいと笑顔で夢を語った彼女。
今もこの空の下のどこかで、きっとがんばっているはずだ。
もしどこかで彼女に出会えたならば、伝えたい言葉がある。
「あの日、あの場所で、あなたに会えて良かった。だって今の私の原点だから。
中国と関われている私は、とても幸せ者。ありがとう!」
もちろん、この言葉を伝えるために心血を注いだ「私の」中国語で!