先月日本に一時帰国した最大の理由は、御年91歳になった祖母が、
年明けに大腿骨を骨折し、2回の手術を乗り越え、6月末日で無事退院できたからである。
入院した当時は年齢もあり、もう歩けなくなるかも、あるいは最悪は
カテーテル治療をしており、血液をさらさらにする薬を服用しているため、
手術中に血液が止まらず、そのまま…という可能性もあると言われていた。
カテーテル治療(PTCA治療)とは | 朝日インテック株式会社 | ASAHI INTECC CO., LTD.
祖母は農協で勤め、県下で初めて女性課長を務めたほど「漢」の人である。
ただ脆い部分も持ち合わせており、特に今回のように気持ちも弱くなっている時、
中国から私が駆けつけると、「ただ事ではない!」と余計な心配をさせることになり
心を先に病んでしまわないかとの懸念から、私は中国で待機し、代わりに
入院中の暇つぶしになればと、毎月手紙を送っていた。
幸い医師も驚くほど、杖がなくても歩けるほどに回復し、約半年の入院生活を無事卒業した。
祖母には合計3人の曾孫がおり、まもなく成人を迎える一人目と二人目。
彼らに比べ我が子は、思わず手を差し伸べたくなるほど、まだまだ幼いこともあり、
祖母にとっては「薬よりもよく効く特効薬」だそうだ。
“特効薬”と一緒に祖母の退院祝い、そして半年に及ぶ闘病生活を支えてきた実母を
少しでも休ませてあげたいというのが、今回の帰国の理由であった。
外出して、誰かと会うことが大好きな祖母は、日頃から白髪も染め、身なりにも気を遣い
見た目は70歳ぐらいだった。
今回帰国で目にした祖母の姿は、入院生活が長かったため全て白髪になり、
骨折した足に負担をかけないために、7キロ減量したこともあり、
一回りも二回りも小さくなっていた。
それでも入院中も一日も欠かさなかったという俳句と、新聞の音読のお陰で
脳の働きは全く衰えていなかった。
我が子が「おおばあば(大ばあば)」と言う度に、目を細め喜んでくれたのが
とても嬉しかった。
帰宅し温度調整のされた病院とは違い、気温の変化が激しかったこともあり、
退院10日ほどで、肺炎にかかってしまった。
医師からは入院を勧められたが「退院したばかりなので、もう入院はしたくない」と
病院で駄々をこね、引き返したことを聞いた私。
外出していたので、すぐに家に戻り、説得するもなかなか聞き入れてもらえず、
頑なに反対する姿を見て、留学を決意したことを話したあの日を思い出していた。
日中戦争で主人を亡くした祖母は、私が中国に留学することに猛反対だった。
頭を下げても、首を縦には振ってくれず、半見切り発車で留学に飛び出した。
中国語に少し自信を持てるようになった留学3年生。家族を北京に招待した。
80歳を超えた祖母も「最後の海外かな」と、一緒に来てくれることになった。
警備の人に移動を促される程手を合わせ黙祷する姿をみて、
「許してもらえたんだ」と分かった。
肺炎を患った祖母は、結局家族と姉妹、友人に説得され、夕方には病院に向かった。
私にできることと言えば、祖母の寝室をきれいに掃除し、家中のすべての床を
清潔に保つために、雑巾で丁寧に拭くぐらいだった。
雑巾を右、左と動かすたびに、また違う思い出が蘇ってきた。
妊娠中、つわりがひどく一時期日本に帰国をしていた。
日本での検査で、助産師さんから「四つん這いになって雑巾がけをすると、
子宮が丸くなって赤ちゃんが過ごしやすく、安産にもなりやすいですからおすすめします。
実行するときは背中は丸めず、膝をつけ、お腹と床が平行になるように」という
アドバイスを聞き、出産の前日まで毎日欠かさず行った。
ある日、雑巾がけをしながら祖母と話をしていると、妊婦に対する古い考え方に苛立ち
また中国で出産すると言う不安も重なり、大ゲンカをしたことがあった。
あの時せめて「そうだね」と、祖母の意見を一旦受け止めてあげられれば良かったのにと
自身の未熟さを反省した。
祖母はまた驚くべき回復力で無事退院し、私の中国への帰国を見送ってくれた。
ちょうど今、義両親が天津から我が子に会いに来てくれている。
結婚後初めて一緒に過ごしたときは、文化や習慣の違いから蕁麻疹が出るほど、
ストレスを貯めたこともあった。
今では義両親と過ごす時間のお陰で、より中国の方を理解できると思っている。
日本の祖母や両親に恩を返すことは、地理的に少し難しい。
だからせめて義両親に、その「感謝」を返せるようにしたいと思う。