我が子にとっては一足早い夏休みとして、久しぶりに実家に戻った。
中国では日本語に接する機会は、私と幼児向けのアニメからのみであるが、
こちらの環境は、すべてが日本語。
日本語のみの生活にどっぷりつかって、数日が経過した。
子供の言語習得能力は、目を見張るものがある。
日本到着の初日。元保育士として幼児の行動や言語には敏感である、ばあば(私の母)とも
コミュニケーションがほとんど取れなかった。
しかしさすが元保育士。とにかく子供の気を引くのがうまい。
元保育士の教育法と日本語のみという環境にも助けられ、3日程経過した頃から
日本語の発音も、文法も驚くほど改善された。
そのため、私という「通訳」がなくとも普通に会話が成立するようになった。
一番の変化は、日本語である程度の長さの「会話」ができるようになってきた。
中国では、私が誰かと会話をしているという様子が(日常的に)見れないため
日本語での話の進め方というのが、我が子にとっては難しいようだった。
しかし日本に戻り、家族と私、近所の方々との「会話」を傍で聞くことで、
日本語のリズムや会話の運び方なども、体感していったように感じている。
さらに我が子を観察していると、相手によって言語を変えていることが分かる。
- 独り言 ⇒中国語
- パパ ⇒中国語
- 中国の家族 ⇒中国語
- 日本の家族 ⇒日本語
- 私 ⇒中国語メイン、日本語
面白いことは、相手の言語を確定するまで、我が子からは言語を発しないことである。
初対面の方が日本語スピーカーであることが分かると、日本語で話しだす。
帰国後、地元にいる中国出身の友人に会った際、友人は中国語で話しかけてくれた。
それを隣で見ていた我が子は、彼女に中国語で話し始める。
友人が面白がり日本語で話し始めると、非常に困惑した様子で発言をやめてしまった。
「ちゃーちゃんと一緒で、お姉ちゃんはちゃーちゃんの言葉の日本語もパパの言葉の中国語も
両方の言葉で話せるよ」と一言添えてあげると、安心したのか中国語でまた話し始めた。
我が子の頭の中が見えるわけではないが、中国語と日本語という2つの引き出しがあり
相手に応じて、どちらの引き出しを開けるか選んでいるように思える。
普段我が子からは中国語で話しかけられるが、私は頑固として日本語で返す。
なぜなら言霊を信じており、私の中国語はその言霊までを伝えられるレベルでないからである。
例えば果物屋さんに行ったとき
「妈妈,想买!(=ママ、買って!)」
「何が欲しいの?」
「嗯……,苹果。(=ん…、リンゴ)」
「リンゴが欲しいのね。どれにする?」
「这个(=これ)」
「これ。おいしそうね。これでいい?」
「是(=そう)」
「じゃあ、これ買おうか」
「ちゃーちゃん、あーと(=ありがとう)」←ここはなぜか日本語
このようなやり取りが常に行われている。
余談だが、私の言語変換力(通訳レベル)を試されているようである(笑)
我が家は、何が何でもバイリンガルに育てようという気持ちはない。
それよりもセミリンガル(あるいはダブルリミテッド)になってしまい、
心まで不安定になることを問題視している。
セミリンガルとは、2つの言語のどちらでも日常会話はできるものの、抽象的な内容を伝達したり理解したりできない状態を指す。いわば、日本語でも英語でも発音良く日常会話はできるのだが、どちらも学習言語としては中途半端で、ものごとを深く考えることができない。
https://biz-journal.jp/2018/09/post_24642_3.html Copyright © Business Journal All Rights Reserved.より抜粋
一言語のみ習得している者はモノリンガル(monolingual)、二言語の環境で育ち、その両言語において年齢に応じたレベルに達していない者はセミリンガルと呼ばれる。近年は、セミリンガルという言葉が否定的だという意見が増え、ダブル・リミテッドという名称が広まりつつある。
私たちの拠点は中国にあり、我が子もこの世に生を受けた時から中国で暮らしている。
そのため中国語が第一言語として、自分の気持ちを細部にまで伝えられる言語に
なればいいという共通認識を夫婦で持っている。
その認識に従い、これまでも夫婦で何十回も話し合い、確認し合い、疑問や問題が
発生するたびに、一緒になって対応している。
もちろん私の母語である日本語を、理解し、少しだけでも習得してくれたとすれば
日本側の家族と、自らコミュニケーションをとることができ、
それは非常にうれしいことである。
私のような後からの中国語学習者からすれば、生まれもってのこの環境は、
うらやましい。しかし彼らにしかわからない辛さや苦しさも、また存在する。
「日本語を勉強しなさい」と強制する前に、「日本語が分かれば、楽しいことがもっと広がる」
と思えるような、環境づくりをしてあげたい。
そしてそれが、私たち親にできることなのではと思っている。
我が子を通して、「言葉と心」をいつも考える。
二言語に接しているからこそ、「苦しい」というネガティブという感情ではなく、
「愉しい」というポジティブな感情を感じて欲しい。
なぜなら言葉を通して気持ちが通じるということは、
とても素晴らしいことだと思うから。