先日発音のイベントでご一緒いただき、
なにより私が中国語の発音で最も落ち込んでいるときに、
真っ先に手を差し伸べてくださった、山岡義則さんのブログ記事です。
先日の中国語の発音についてのイベントでも、中国語のネイティブ・スピーカーの発音を求めて皆さんは日夜努力されているのですが、どうも、「目的」を見失うというほどのことはないにしても、明確になっていないような気がしました。
(中略)
中国語の発音で「ネイティブ・スピーカーのような発音」を「目的」にする。
でも、それは具体的にどのような発音なのでしょうか?
私の場合、「目的」は「中国人のような発音になってみんなからすごい!と思われること」だったし、「中国人と中国人のように会話し、しかも笑いをとることができるような中国語を身につけること」が「目的」でしたから、中国の漫才を必死に真似しました。
でも、多くの中国語学習者が「音読」をされます。
もちろん「音読」は大事な訓練だと思いますし、素読という歴史を持った私たちは、また、脳の特質を考えると有効なトレーニングだと思うのですが、「音読」をする「目的」が明確ではないのではないかと思うのです。
何のために「音読」をするのですか?
山岡さんのブログにもコメントをさせていただきましたが、
非常に素晴らしい記事だと思いました。
また心に響いた言葉が、いくつも散りばめられておりました。
私の目的は「家族を守るため」。
一昨年ぐらいから、日中関係は温かい風が吹いています。
しかし私が留学をした2004年ごろは、自分が日本人であることを偽らなければ
身の危険を感じてしまうことがある程、関係が冷え込んでいました。
今は温かい風が吹いていたとしても、いつまでも晴れの日が続かないように、
いつまた「曇りのち雨」、あるいは「大雨暴風警報」が発令されるか分からない
それが国家と国家の関係なのです。
今の暖気に胡坐をかくことなく、万が一寒気が流れ込んできても、
ジタバタする必要がないように、私は中国語力を向上させておきたいのです。
あの頃、私の中国語が外国人だと分からないレベルなら、
あの頃、日本人であったとしてもその努力を認めてもらえるほどのレベルなら
きっと日本人であることを偽らなくても良かったはずです。
言葉は自分の身を守るためにも、必要不可欠。
自分を守ることは、結局家族を守ることにもつながってきます。
北京、特に上海のような大都市では外国人は“日常茶飯事”かも知れません。
しかし東北地方、ここ瀋陽では「外国人」と言うことがまだまだ“特権”となり得ます。
私自身決して大した人間ではないのに、中国語を少し話せるだけで
中国企業の取引先、さらには我が子のこども園や習い事の先生方、ご父兄の方々、
中医の先生らが、非常に大事に接してくださいます。
中国語を話せることが、相手を敬うことでもあるからです。
ただ発音は外見と同じで、「生理的にNO」「ちょっと苦手だな」と思われると
中身(話の内容)がいくら良かったとしても、なかなか心のドアを開いてくれません。
少なくとも相手の懐にお邪魔できる程度の発音は、身に着けておきたいと思っています。
我が子が(だいぶ先の話ですが)これから思春期に突入していく中で
「お前の母ちゃんの中国語、下手くそだなぁ!」と友人から負い目を感じるのではなく
「お前の母ちゃん、なかなかやるなぁ~!」と、ポジティブに働くようにと
(半ば不純な?)目標があるからです。
だから発音を少しでもネイティブに近づけたいのです。
中国語の発音で「ネイティブ・スピーカーのような発音」を「目的」にする、
私の理由です。