ちゃーちゃん@中国瀋陽

オンライン中国語講師|中国語ネイティブの発音と、より楽しく学べる方法を模索中|漫才や“脱口秀”など、面白い事(言葉遊び)が大好きな関西人

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デリケートな問題について考えてみる

いつも興味深い内容のブログは発信しておられる、うーやんさん。

そんなうーやんさんがSK-ⅡのCMを用い、結婚に対する中華圏の一般的な考え方を

ご紹介してくださっています。

 

うーやんさんのブログ記事でも取り上げられている、CMはこちら。


SK-II: 婚活マーケットを乗っ取ろう

 

個々のメイキング画像もYoutube

SK-II - interview about the Marriage Market Takeover』

で検索をするとみられますよラブラブ

ちゃんとした日本語字幕も設定で出ますし、

国語学習者の方は聞き取りやすい中国語&内容かと思いますグッド!

この投稿を拝見したときに、最近ちょうど主人とも結婚や家族について

話したところでしたので、今日はこのことについて少し私の意見を話したいと思います。

 

※以下の記事は、結婚、妊娠出産関連、性別というような敏感な内容を含みます。

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ご存じの通り、主人は中国人。

しかも家族に関しては、かなり“伝統的”な考え方を持っているため

私との考え方に「水と油」の時が、たまにある。

 

我が子は片手で年齢が数えられる程、まだまだ幼い。

それでも主人は、今から「孫」の心配をすることがある。

孫の心配をするということは、我が子が結婚するということが前提だ。

 

いやいやいや。

「結婚したい」という意見と同じぐらい、「結婚したくない」という意見も

あっていいと思うと伝えてみても、「結婚して子供がいて一人前」という

中国(アジアと言ってもいいかもしれないが)の伝統的な考えから、

離れられないようである。

 

主人だけが何も特殊ではない。

義弟夫婦は、結婚後約10年間不妊に悩んでいた。

奥さんの実母さんはそんな状況を見て、「女は子供が産めて一人前。子供が産めなかったら

あんたは私の子供ではない!」と、言い続けていたそうだ。

 

幸いミンミンが、義弟夫婦の元に来てくれることになり

この話は「過去の話」になったが、以前彼女が心のうちを話してくれ、最後に

「嫂子(=私のこと)が第二子を出産したら養子縁組をしてほしい。あるいは

これからの教育費を全て支払うので、我が子を4人(私達夫婦と義弟夫婦)の

子供として育て、私たちの職業(医者)を引き継いでほしい」と相談されたときは、

正直天と地がひっくり返るかと思うほど、衝撃を受けたことを覚えている。

 

我が子は我が子だし、なにより我が子の意思とは関係なく、

勝手に我が子の道を決められることに強い怒りを覚え、主人に訴えたことがあった。

「気持ちは分かるけど、『我们是一家人嘛(=家族でしょ)』」という一言で終わり、

幼い我が子を抱え、逃げ出そうかと思ったこともあった。

(今は生活を共にする中で、私の考えも理解してくれるようになった)

 

ミンミンの誕生により、この「家業を継ぐ問題」の風向きは一気に変わったが、

「医者ほど素晴らしい職業はない」と言う義弟夫婦の前に、

ミンミンは医者以外の職業選択の自由はなく、

医師が彼の進みたい道であることを、伯母は傍から祈るばかりである。

 

話しが少し逸れたので、結婚の話に戻そう。

 

結婚観、家族観が変わってきたとはいえ、まだまだ伝統的な考え方が根強い。

しかも現在結婚適齢期を迎えている若者たちは、一人っ子政策の影響で

ほどんどの家庭が一人息子、あるいは一人娘のため、両親の期待、そして失望が

一人の肩に全てかかってしまう。

両親が開放的であったとしても、親戚のしがらみ、社会の目から逃れられることはまずない。

 

中国では「家族の中での役割」が非常に重視される気がする。

その役割の責任と義務を果たす必要がある。

長男であれば、みんなをまとめ指揮をとらなければならないし、

長男の嫁であれば、みんなのことをフォローしなければならない。

 

家族の中の「子供」はいずれ、結婚をして、子供を産み、「親」へと

脱皮しなければならないという、責任と義務があるのだと思う。

 

幸せの形は決して唯一ではなく、またみな同じでもない。

親の希望に操られるのではなく、自分の道をしっかり歩けることが幸せと思える人も、

親の「結婚してほしい」という希望を叶えられることも、

また一つの幸せという考えがあってよい。

 

ただどんなことであっても、どんな方法であっても、自分自身が幸せと思える生き方が

できることを願うばかりである。