今年2020年。
本来ならば東京オリンピックが開催され、
今頃は「心に残ったあのシーン」というような特番が、おそらく組まれていたはずだ。
我が家も新型コロナウイルスにより引っ掻き回され、押し寄せる怒りと不安に、
「これらも受け入れなければ」と、深呼吸をする日々を過ごした。
いろんなことがあったからこそ
ここにきて、私が瀋陽にいる意味は何だろうと考える。
きっかけは、ある方の瀋陽訪問記を拝見し
「空気が悪い」
「ごみの分別がまだまだだ」
「出される料理の量がとにかく多い。食品ロスの問題が、全く解決されていない」
という“客観的”なご意見に、
少々(いや内心とても)、怒りにも似た不快感を感じている自分に気づいた。
6年前に上海から引っ越してきたときは
「あぁ…、こりゃぁ、なかなか大変なところに来たぞ」と
北京の留学時代や上海の就職時代では、経験できなかった中国を肌で体験し、
ショックを受けた頃が懐かしいほど、今は『住めば都』なのである。
2018年7月にJETROが発表したデータによると、
瀋陽市の在留邦人数は677人(2016年10月時点、3か月以上滞在する者)とある。
ちなみに上海は46,000人(2015年)を超えているが、データがどちらも古いため、
今は新型コロナウイルスがなかったとしても、どちらも減少傾向にあるように思う。
そんな状況の中で、冒頭の問いかけに戻る。
「私が瀋陽にいる意味は何だろう?」
このブログを開設したきっかけでもある、
『瀋陽在住の日本人女性から見える中国』を、発信したいのだという思いに気づく。
1日1記事。
何気ない瀋陽の日常を届けたい。
それが私が瀋陽にいる意味なんだと思う。