ちゃーちゃん@中国瀋陽

オンライン中国語講師|中国語ネイティブの発音と、より楽しく学べる方法を模索中|漫才や“脱口秀”など、面白い事(言葉遊び)が大好きな関西人

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【自叙伝】(4)大学3年生

【前回のあらすじ】

大学の志望校が全滅し、失意のまま大学生活を送っていた私。

ある授業を受講したことから、出逢えたA教授からの刺激を受け、

靄のかかった大学生活に薄日が差し始める。

そして念願だったA教授のゼミナールに合格。その後運命を変えるジャンケンが始まる。

 

3年生のゼミナールの学生は約20名。

5グループに分け、アメリカのマイノリティーグループの研究をする。

 

私のグループは4名。彼女たちとは他の授業も一緒に選択し、その後一緒にヨーロッパへ

卒業旅行を共にするほど、仲の良い関係だった。

 

私は自分が日本人であるため、「Japanese American」の研究をしようと思っていた。

アメリカ文化に触れて育った「Japanese」と、私を含めた「日本人」との比較し、

違いを知ることで、今までとは違う角度からの異文化理解ができるのでは?

と、考えたからである。 (※差別的な意味はありません)

 

ただグループ内で、切磋琢磨をし1年生から共に勉強してきた彼女が、第二外国語

中国語を選択していたこともあり、「Chinese American」の研究をしたいと言い出した。

グループの他の2人は、「どちらかと言えば『Japanese American』が良い。」

「私は『Chinese American』派かな」と、こちらも意見が真っ二つに割れてしまった。

2対2で、どちらも譲らず。話し合いは1週間にも及んだ。

どちらも最終的な決め手に欠け、こうなれば公平なジャンケンで採用案を決めようとなった。

 

切磋琢磨の彼女は「Chinese American」派、私は「Japanese American」派として、

それぞれ自分と、もう一人の思いも背負い「いざ、勝負!」

 

ジャンケン…。

(お互いが)グー。

「あいこで…。」

(お互いが)パー。

「あいこで…。」

を、繰り返す。これが2年間共にした時間の証だな、と思いながら

5回目の「あいこで…」

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我々のグループが「Chinese American」に決定した瞬間だった。

 

4人で「Chinese American」の研究発表をしなければならず、そのためにテーマが

重ならないよう、研究分野を分ける話し合いから始まった。

(このグループディスカッションも教授からすれば、非常に大切な意味が込められており、

これから社会に出て行ったとき、自分のやりたいことを主張しつつ、どのように

調和していくか、という訓練であった。)

 

ここで少し「Chinese American」のことを触れおくとしよう。

 記録上、最初にアメリカに到着した華人は1785年であるが、それよりもっと早かったかもしれない。アメリカ政府の記録によると、1820年に325人の中国人が移住した。1848年のカリフォルニアゴールドラッシュの時に1000人前後の中国人が渡米した。1852年に25,000人、1880年には10万人以上となった。多くがアメリカ西海岸に住み、主に鉱山や鉄道敷設工事の労働者、あるいは下働きの奉公人として働いた。独身の男性が中心で広東省出身者が多かった。経済的理由のほか、太平天国の乱から逃れて来た人々もいた。

 急増する中国人に対し人種差別的な反感が湧き起こり、政府は1872年に中国人女性の移民を禁止、1882年には中国人排斥法を成立させた。1898年には、サンフランシスコ生まれの中国人・黄金徳(Wong Kim Ark)が再入国を拒否されたことで、等しい市民権を保障するアメリカ合衆国憲法修正第14条に違反するとして訴えて勝訴し、以降、アメリカ生まれの中国人は自動的にアメリカ人であることが改めて承認された。中国人排斥法は1943年に廃止された。

「中国系アメリカ人」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA

そして私は「1848年のカリフォルニアゴールドラッシュの時」から1900年の頃を主に、

研究することにした。

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つまりここで、中国との“積極的な”接点が初めて生まれることになる。

(※もちろん今までも、社会科の授業で中国史や、中国地理などで中国と接してきた。

しかしそれらは全て教科書に沿い、先生に教わる受動的、消極的な関わり方であった)

 

とは言え、私自身はそれまで「Japanese American」に研究テーマを定めており、

尚且つグループ内でのアピールプレゼンのため、資料もずいぶん用意していた。

それが一気に方向性が変わったことから、初期の「Chinese American」について

とにかく図書館で資料を漁る日々が続いた。

 

この行動が、この1年後に起こる人生最大とも言えるターニングポイントに、大きく

関与することになる。

 

その話は少し置いておき、秋の大学文化祭も近くなった頃、ついに私たちのグループが

発表のときを迎える。週一90分の授業で、4回分、つまり約1か月にも及んだ。

幸い私たちのグループは、単位取得評価である優良可の「優」判定をいただいた。

 

発表を終え、年末に4年生の卒業論文の方向性を決める書類を提出する必要があった。

「Chinese American」の研究がすでに楽しくなっており、このまま引き続きこのテーマで

研究しようと考え、教授に申請した。同時にもう少しテーマを絞ろうと、

その決め手を探し求めながら、大学3年生の学期を終了した。

 

(次回に続く…) 

 

【自叙伝】(1)幼少期~高校入学

【自叙伝】(2)高校入学~2年生

【自叙伝】(3)高校2年生~大学2年生

【自叙伝】(4)大学3年生 

【自叙伝】(5)就職活動 

【自叙伝】(6)英語敗北宣言 

【自叙伝】(7)中国への舵が切られた瞬間

【自叙伝】(8)就職時代 

【自叙伝】(9)留学時代(+中国語入門、初級学習法&日本人発音講師ご紹介)

【自叙伝】(10)中国語の種をまく ~最終話~