ちゃーちゃん@中国

中国滞在10年以上の日本人女性から見える「生の中国」とは?



あなたの目には、中国はどのように映っていますか?

あなたが本当に知りたいことはなんですか?

影響力等は決してないですが、日本人と中国人の誤解が少しでも解ければと思って始めたブログです。



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【自叙伝】(3)高校2年生~大学2年生

【前回のあらすじ】

ニュージーランドでのホームステイを終え帰国した私。

たった3週間だったが、生の英語に触れ興味が沸いていた。同時に

クラブ活動に力を入れるも、大きな怪我。

目標としていた進路が途切れた瞬間でもあった。

そんな時、目にした『高校生交換留学制度』のポスター。言語への路が動き出す。

 

ポスターを見た夜、早速ニュージーランドでホームステイを共にした“twins”の彼女に

連絡し、オススメの英語教材を教えてもらう。

また両親に頼み込み、英会話スクールにも通うことにした。

募集期間は春。それまでとにかく英語力アップをしたいと思っていた。

 

年明け、両親と英語教師に『高校生交換留学制度』に申し込みたいと話しを切り出した。

どちらの答えも「高校を卒業してから留学してもいいじゃない?」だった。

どうしても行きたいことを伝えると、今から準備をして9月から1年間、

つまり高校3年生の9月から1年間。帰国をすれば周りはみんな大学生になっている。

それなら「留学は高校をとりあえずは卒業してから!」という反対意見だった。

 

また制度は派遣先が東南アジアとヨーロッパだったため、(これはこじつけのような気もするが)

「あなたが今一番学びたい英語じゃないかも」という話しもされた。

 

まだまだネットも普及していない90年代半ば。

情報を得ようとしても、自分の地元には図書館もない、留学雑誌を置いてあるような

本屋さんもない、ましてや質問を聞いてくれるような留学したOB、OGもいない。

自分でもどこから手を付ければいいか分からず、結局見送ることで同意した。

 

高校3年生の春、進路調査。進路先を「留学」と初めて書く。

放課後、進路指導の先生と担任に呼び出され、2時間進路指導室に軟禁状態。

クラブ活動で県大会が控えているからと、なんとか抜け出す。

 

それから時間は流れ、クラブ活動も引退した夏休み前、再度進路調査。

進路先をもう一度、枠からはみ出すほど大きな文字で「留学」と書く。

放課後、進路指導室に再び軟禁されながら、進路指導の先生と担任が

母親に電話連絡。

 

私の席から遠く離れた電話機。こちらには担任と母親が何を話しているかはわからない。

担任がハンカチで汗を拭きながら、電話越しに軽くお礼をしているのが見えた。

蝉の声を聞きながら、担任と母親の電話が終わるのを待った。

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軟禁が解け、帰宅。

午後8時過ぎ、帰宅した父親と共に開かれた家族会議。

「日本の大学の英語学科に行けばいいじゃない」という提案。

あのニュージーランドでの経験から、外国かぶれをして戻ってきた私。

とにかく日本から飛び出してみたいと思う気持ち。

でも確かに我が家の経済的な事を考えると、正直これ以上は強く言えなかった。

さらに高校3年間は、クラブ活動のソフトボールに明け暮れる毎日、そして高校2年生

後半からの進路変更、理系から文系へ。

“軟禁室”でも何十回も聞かされた留学に向けた英語力不足は、身に染みるほど感じていた。

 

そして冬。受験シーズン到来。

第1、第2志望の外国語大学は見事に全滅。なんとか総合大学の「外国語学部」に合格。

浪人も考えつつ、すでに払い込んだ入学金額を思えば、その言葉が口から出ることはなかった。

 

桜が咲き始める頃、親元を離れ始めての一人暮らし。

そこで感じた自分の小ささ、そして幼さ。「井の中の蛙」を身をもって経験した。

 

もっと自分は何でもできると思っていた。もっと自分は強いと思っていた。

 

ホームシックにかかり、毎晩一人で泣いた日々。

それでも「帰りたい」と言い出せない、“弱い”私がいた。

 

高校卒業までは、“普通”にしていれば、学内では上位の成績が収められた。

そのため先生も何かと目をかけてくれた。

けれど大学に入り、少しの努力ぐらいでは才能あふれるクラスメイトに、英語の授業が

どんどん取り残されていく。 

さらに自ら追い討ちをかけてしまう。ホームステイを一緒にした彼女と比べて、

落ち込んではやり場のない挫折感を感じていた。

 

英語を勉強して世界を広げたかったはずなのに、自信を喪失し、

自分を閉じ込め、世界がどんどんどんどん、狭まっていくように感じた。

勉強をやればやるほどコンプレックスになり、苦しくなった。

 

毎日大学に通うも、毎日退学する事ばかりを考えていた。

そんな大学1年生の後期。たまたま選択した英作文の授業で、後のゼミナールの担当となる

A教授と出会う。

その教授の専門は「アメリカのマイノリティーグループ」の研究だった。

英作文の授業中、間に挟まれるアメリカのマイノリティーグループから見る

影の部分の話は、今まで聞いたことがない話ばかりで、非常に感慨深く、

そんな考え方もできるのかと一気に引き込まれた。

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3年生から始まるゼミナール。この教授のゼミナールに参加したいと、わずかな光を見出し、

大学生活でかかっていた靄が、少しずつ晴れていくようになった。

 

ゼミナール申請時期の大学2年生の秋。A教授の人気授業だけに選抜試験が行われた。

この教授を選択した理由や、大学生活における今までの取り組みを書く「レジュメ」と

呼ばれる自己紹介書の提出、そして面接が行われた。

この日のために、教授の授業をすべて受講していたこともあり、面接時の第一声目が

「今日のランチ何を食べましたか?」と聞かれるほどだった。

 

3年生になり、A教授のゼミナールに参加。

3年生はグループで『アメリカ マイノリティーグループ』の研究をし、

著書の調べ方、論文の展開方法、プレゼンテーションの進め方など身に着け、

4年生の卒業論文の基礎固め、下準備をしていく。

そしてグループでの共通テーマを決めるジャンケンこそが、私の人生において、

3つ目のターニングポイントになるとは、この時夢にも思っていなかった。

 

(次回に続く…) 

 

【自叙伝】(1)幼少期~高校入学

【自叙伝】(2)高校入学~2年生

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