ちゃーちゃん@中国瀋陽

オンライン中国語講師|中国語ネイティブの発音と、より楽しく学べる方法を模索中|漫才や“脱口秀”など、面白い事(言葉遊び)が大好きな関西人

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【自叙伝】(8)就職時代

【前回のあらすじ】

中国を見下していた私。そんな私に大連理工大学の学生が放った一言。

「60年前中国と日本は戦争をしてよかったと思います」

中国への舵が切られた瞬間だった。

就職を辞退し留学をしたいと思っていた頃、母の指摘に背中を押され、冬休みに

中国短期語学研修に参加。「今はまだ留学の時ではない」と悟り、

まずは就職し軍資金を貯める決心をする。

 

大学の卒業式を終え、寒さがまだ残る3月中旬。私は段ボールに荷物を詰めていた。

4月1日の入社式、配属先は東京。

同時に中国留学に向け、自分の中で目標を定めた。

 

まずは3年間社会人経験を積む。そして留学軍資金の500万円を貯める。

その3年間、留学したいという気持ちが少しでも薄れたならば、あるいは500万円に

到達できなければ、中学留学の夢はきっぱりあきらめる。

 

500万円と言う数字は、学費と生活費を合わせ1年間約100万円ぐらいだったと、

中国に1年間留学していたゼミナールの先輩に教えていただいた金額に、予備としてさらに

1年分を追加した数字であった。

また3年とは、就職活動時によく耳にした新入社員が入社後、まずは3年我慢できなければ

どの会社に入ってもやっていけない、再就職が難しいと言われた年数だった。

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就職先はブラザー制度を採用しており、私のブラザーは非常に仕事のできる方だった。

また厳しい方でもあり、「接客とは?」「サービスとは?」「おもてなしとは?」を

毎日、徹底的に叩き込まれた。また「泣くなら店舗を出てからにしなさい」とトイレで

泣くことも許されなかった。

とにかくブラザーの真似をし接客方法を覚え、がむしゃらに知識を詰め込み、

トイレに行く暇もないほど、必死に仕事に打ち込んだ。

 

勤務は今では労働法違反として、大きく取り上げられるであろう労働条件だった。

3年間で一番働いた時は、残業時間だけで160時間近くにもなった。

幸いにして残業は1分単位での計算だったため、給与分ぐらい残業代が出た。

 

仕事は大変だったが、同じ苦しい境遇を一緒に乗り越えた同志なだけあって、

社員同士のチームワークは非常に良かった。またチームを取りまとめる上司からも、

本当に多くのことを学ばせていただいた。

 

季節が巡り翌年の春、今度は私が4人の新入社員のブラザーになった。

仕事も要領を掴み、顧客からの信頼もだんだん得始めてきたころ、人事異動があり

内勤配属になる。

直属の上司が店舗最高責任者となり、胃に穴が開くほど毎日叱られまくった。

その理不尽さと、また販売がしたくてこの会社に入社したはずが、その目的が閉ざされ

忙しさで後回しになっていた「留学」の文字が、再度頭脳に浮かぶ日々を過ごす。

 

一方で内勤配属のため、IMacPOP広告を作成する仕事を任され、それらが認められ

逆に本部のPOPチームから、ヘルプ依頼が度々届くようになる。

さらに採用、人事関連の仕事も任されるようになり、仕事がどんどん楽しくなり、

自分の価値を見出すことができ始め、留学への気持ちが少し揺れ動くときもあった。

 

勤務が終わり、電車の中で毎日考えることは「留学するか、あるいは留学せずにこのまま

仕事を続けるべきか」ということばかり。

しかし下車する間際に、疲れた体を引きづりながら「こんな生活を10年後、20年後も

このまま続けていられはしないのでは…」と考えていた。

 

今の若いうちは良いが、年齢を重ね、家庭も持ち、体がついていかなくなった時に

「この決断」を後悔することだけはしたくない。

さらに世の中は相変わらず不景気。手に職をつけるような仕事が最後は強いだろう。

なにより大連理工大学の学生のあの一言。あの言葉がいつも胸の片隅から離れない訳は

私自身が中国留学を、心から望んでいる何よりもの証であろう。

 

やはり中国に留学したい。飛び出すなら、今しかない。

 

その思いを形にするため、日本で開催された中国留学の奨学金制度に申し込んだ。

合格すれば半年間の留学費用を、全額負担してくれるというものだった。

2003年霜月、寒くなり始めた頃一足先に「春」を知らせるニュースを受け取った。

これでもう、気持ちは固まった。

 

そして2004年1月1日。上司に3か月後の退職希望を申し出た。

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とにかく忙しい職場だったため退職願のほかに、今まで自分が習得してきた知識や技術

顧客リストなど、全てレポートにまとめ一緒に提出した。

 

ずっと腕組みをして、聞いていた上司。

「上司として、会社としてはこの退職願を破り捨てたいところだが、私個人としては、

君を応援したい。君の仕事ぶりを見てきて、破り捨てたところで意思を変えないことも

重々承知している。大いに成長してきなさい。」と、退職願が受理された。

 

退職の日、上司が「店長室へ」と私を呼び出し、掛けてくださった言葉にしびれた。

「私の嫌味にもよく耐えてがんばった。留学で苦しくなった時は『あの時に比べれば』

と、思いだしなさい。でももうこれ以上進めないと思ったときは、またここに戻ってきなさい。

君の席ぐらいは、私が何とかする。とにかく頑張ってきなさい」とのエールだった。

 

3月31日。3年間勤めた会社を退職し、中国留学に飛び出す荷造りをし始めた私。

夢がまた1つ叶ったと喜んだのもつかの間、中国に到着後、中国語の壁に阻まれ2日間

飲まず食わずの時間を過ごすとは、まだこの時は知る由もなかった。

 

(次回に続く…) 

 

【自叙伝】(1)幼少期~高校入学

【自叙伝】(2)高校入学~2年生

【自叙伝】(3)高校2年生~大学2年生

【自叙伝】(4)大学3年生 

【自叙伝】(5)就職活動 

【自叙伝】(6)英語敗北宣言 

【自叙伝】(7)中国への舵が切られた瞬間

【自叙伝】(8)就職時代 

【自叙伝】(9)留学時代(+中国語入門、初級学習法&日本人発音講師ご紹介)

【自叙伝】(10)中国語の種をまく ~最終話~