ちゃーちゃん@中国瀋陽

オンライン中国語講師|中国語ネイティブの発音と、より楽しく学べる方法を模索中|漫才や“脱口秀”など、面白い事(言葉遊び)が大好きな関西人

◆スポンサーリンク◆


「全体」という呪縛

本日日本一時帰国。

予約投稿をセットしたため、この記事がUPされる頃は空港だろう。

 

中国(留学)は自分が来たくて来た。自分で決めた選択肢。

しかし一時帰国となれば、はやり心は毎回浮き立った。

 

北京で留学、上海で就職を経験し、(それなりに)中国を知っているつもりでいた。

しかし瀋陽で結婚生活し始めた時、「正直大変なところに来てしまった!」と思ったものだ。

「中国好き」のひいき目で見てもだ。

北京や上海に比べ、人間もまだまだ発展途上の瀋陽。理不尽な不甲斐なさを感じることも多々ある。

 

しかし住めば都なのか。

最近はこの瀋陽の生活が、中国生活の中で一番落ち着き、日々のちょっとした隙間に楽しさを

感じられる。

 

なにが違うのだろうか?

 

例えば、以前北京や上海でいた頃は、“ちょっとしたこと”ですぐにイライラした。

「なぜそんなこともできないのか」と。

その後口をついて出た言葉は、「だから中国(人)は」「やっぱり〇〇は」だった。

 

今はどうだろうか?

「まぁ、そういう事(部分)もあるよね」という考え方をする。

 

そう、物事を部分的に捉えられるようになってから、気分が随分と楽になった。

  • あのスタッフさん、口は悪いが、仕事はきっちりこなす人だ
  • 押し売りっぽくされたけど、たくさんサービスしてくれた
  • 彼のあの部分は苦手だけど、あの部分はやっぱりすごい!

 

そんな風に、ネガティブな感情をその事(人)全体に掛けないようにできること、

これは異文化で暮らしていく中で、とても有効な手段ではないだろうか?

少なくとも私は、以前のような苛立ちはとても小さくなった。

 

日本と言う国は、調和性や協調性が求められるがゆえに、「部分的」という考えがしづらい国

なのかもしれない。

  • だから若者は
  • やっぱりでき婚だから
  • 高齢者たちと言えば・・・
  • みんなが〇〇が良いっていうから

そろそろ「全体」という呪縛から解放されてもいいのではないか?

自分自身が少しでも“楽”に生きるために。

f:id:chachan-china:20181101043501j:plain