本日日本一時帰国。
予約投稿をセットしたため、この記事がUPされる頃は空港だろう。
中国(留学)は自分が来たくて来た。自分で決めた選択肢。
しかし一時帰国となれば、はやり心は毎回浮き立った。
北京で留学、上海で就職を経験し、(それなりに)中国を知っているつもりでいた。
しかし瀋陽で結婚生活し始めた時、「正直大変なところに来てしまった!」と思ったものだ。
「中国好き」のひいき目で見てもだ。
北京や上海に比べ、人間もまだまだ発展途上の瀋陽。理不尽な不甲斐なさを感じることも多々ある。
しかし住めば都なのか。
最近はこの瀋陽の生活が、中国生活の中で一番落ち着き、日々のちょっとした隙間に楽しさを
感じられる。
なにが違うのだろうか?
例えば、以前北京や上海でいた頃は、“ちょっとしたこと”ですぐにイライラした。
「なぜそんなこともできないのか」と。
その後口をついて出た言葉は、「だから中国(人)は」「やっぱり〇〇は」だった。
今はどうだろうか?
「まぁ、そういう事(部分)もあるよね」という考え方をする。
そう、物事を部分的に捉えられるようになってから、気分が随分と楽になった。
- あのスタッフさん、口は悪いが、仕事はきっちりこなす人だ
- 押し売りっぽくされたけど、たくさんサービスしてくれた
- 彼のあの部分は苦手だけど、あの部分はやっぱりすごい!
そんな風に、ネガティブな感情をその事(人)全体に掛けないようにできること、
これは異文化で暮らしていく中で、とても有効な手段ではないだろうか?
少なくとも私は、以前のような苛立ちはとても小さくなった。
日本と言う国は、調和性や協調性が求められるがゆえに、「部分的」という考えがしづらい国
なのかもしれない。
- だから若者は
- やっぱりでき婚だから
- 高齢者たちと言えば・・・
- みんなが〇〇が良いっていうから
そろそろ「全体」という呪縛から解放されてもいいのではないか?
自分自身が少しでも“楽”に生きるために。