2018年8月12日、日中平和友好条約締結40周年を迎えた。
2017年に日中国交正常化45周年を迎える準備で忙しくなり始めた2016年頃から、
中国側の日本に対する態度に一気に変化が起き、あたたかい風が吹き始めたように感じる。
その顕著たるものが、街頭広告。
日中関係が冷えれば、「日本」という文字は一斉に見えなくなり、
「愛国主義」「抗日」「尖閣諸島」というような文字が多くなる。
しかしここ最近は、こんな瀋陽の片隅でもバスの側面は積水住宅の広告であったり、
バス停には日本旅行の宣伝が掲げられていたりする。
でも思い返せば、10年以上も中国いると、日中関係が今のように
「晴れ」の日ばかりでは決してなかった。
むしろ2004年に留学で中国に渡ってからは、「嵐」の日ばかりが続くことの方が多かった。
テレビから流れだす「反日デモ」。
人の波が押し寄せ、幾重にも人垣ができている。
「野蛮」「暴力」「下品」といったネガティブな情報が踊る各メディア媒体。
私が留学2年目の「2005年の反日活動」である。
タクシーに乗れば、なに人かと聞かれ、正直に「日本人」と伝えようなものなら
乗車拒否や罵倒、中傷が当たり前。ときには身の危険を感じることもあり、
心中複雑でも「韓国人」と告げたことも数知れずあった。
デモも少し収まった8月のある日、
中国人の友人4名(男性2名A君・B君、女性2名Cさん・Dさん)と
夕食をとるために、大学の近くのレストランにへ行くことに。
席に着き注文も終え、料理を運ばれてくるのを5人で話ながら待っていると、
A君の友人、Z君のグループ4名が偶然にもこのお店に入ってくる。
私とZ君は以前直接かかわりがなく、向こうは私が日本人ということを
知らないことも知っていたし、A君とZ君が仲良くしていたのも知っていた。
A君が立ち上がりZ君と握手を交わしながら、「一緒にどう?」と誘い
男女合わせて9名、一緒に食卓を囲むことになる。
中国語を始めてまだ1年未満、自分の中国語に自信もなかったので、
話しには入らず、みんなのやり取りを耳をダンボにしながら
みんなの会話を見守ることに。
ふとZ君グループの一人に話しかけられ、つたない中国語で答える。
そのときZ君の取り皿を分ける手が、ピタリと止まったのが気になった。
料理が運ばれ、ビールや飲み物も各コップに注がれ、いざ乾杯。
大学生9人が立ち上がり、「かんぱーい!」と聞こえたかと思うと、
頭の天辺から冷たいものを感じる。
ビールだと気付いた時に聞こえた一言。
「おまえら、くず日本人と一緒に飲むビールはない! 日本人なんか×××××!!!」
Z君の今まで見たことのない、蔑んだ眼差し。
立ち尽くしている私の目に、次の瞬間映ったものは、
Z君に殴りかかるA君の姿。そしてA君の応戦に向かうB君の姿だった。
CさんとDさんに介抱されながら、ただただ目の前で起こる一連のやり取りを
眺めているしかできなかった私。
A君とB君がZ君をボコボコにしたあと、
みんなの前で「ごめんね、ごめんね」と涙を浮かべて私に頭を下げるA君。
彼につられるように一緒になって頭を下げるB君、そしてCさん、Dさん。
レストランを出た後も彼らは家に着くまで、私の手を強く、強く握っていてくれていた。
今日、この話を発表したのは、
中国人ってやっぱり「野蛮」「暴力的」ということではなく、
日本人とか、中国人とか関係なく、体を張ってでも友人を守ろうしてくれた彼らが
中国にはいることを伝えたかったからである。
あの当時、「日本人と一緒にいる」というだけで、不穏な空気が流れる時があるほど
中国社会が混沌としていた。
そんな時でさえも、味方になり、盾となり、日本人の私を守ってくれる中国人がいた。
利害関係、恋人関係とは無縁で、ただただ純粋に大切な「友人の一人」として。
つたない中国語でも、一生懸命理解しようとしてくれた。
つたない中国語でも、一生懸命理解してほしいと伝えた。
だからメディアに踊らされた偏った、操作された情報の中で
中国、あるいは中国人を表面的に理解する人たちを見ると、悲しい。
そして憤りすら覚える。
人間だから好き嫌いがあっても、全くかまわない。
でも自分で確かめず、知ろうともせず、判断するのはいかがなものか!
一度ご自身のその眼で、その足で、実際の中国に触れてからの結論でも、
決して遅くなはい、と思っている。
その後A君は、そのまま大学に残り、留学生のヘルプ教員になった。
数年前、出張で北京を訪れ久しぶりに会ったとき、彼の顔はより一層輝いていた。
まもなく9月、中国の新学期が始まる。
今日も海外からの新入生受け入れ手続きで、忙しく走り回っていることだろう。
がんばれA君、そして私も負けない。