ブログを始めてから、来月上旬で2か月が過ぎようとしているが、
この約10年間の中国生活では出会えなかった出来事が、たびたび身近に起こる。
まるで天からの見えない力で、「ブログに書け。そして広めよ」と
操られているかのように…。いや、本当に(笑)
先日は新婦が初めて新居に入る儀式が、このマンションで行われ、ご家族に許可を頂き
夢中でシャッターを切った。この様子はまた後日ご紹介したい。
また、この救急車にしてもそうだ。
遠くで音が聞こえる、あるいは目の前を通り過ぎるのは、今まで何度も経験した。
しかし、私がまさに伝えたかったことが、こんなに近くで起こりうるとは、
想像たりともできなかった。まずは、この画像をご覧いただきたい。
日本の救急車を思い浮かべながらご覧いただいた方には、
「あれ!?」と、違和感を抱かれたのはないだろうか?
こちら中国、少なくとも瀋陽は、日本のように救急車に道を譲るために、
自動車が「モーゼの十戒」のように、道両脇に散らばることはない。
私も留学時代、この現象に怒りにも似た感情を抱いていた。
「なぜ協力して救急患者を助けないのか?」と。
日本のように救急車に道を譲れば、1分1秒の差で助けられる命もあるのではないかと。
「なぜこんな当たり前のことが、当たり前にできないのだ!」と。
しかし今ならよく分かる。それぞれの国には、それぞれの国情があるのだ。
まず、目の前の信号が赤で停車している時、後ろから救急車が来たために道路を譲り、
万が一信号待ちの白線を超えてしまった場合は、信号無視の交通違反とみなされる。
それを撤回するにはわざわざ交通警察に出向き、無実の証明を自分で準備し、
再検討の申し出をしなければならない。
再検討の申し出を怠った場合は「信号無視」で、もちろん罰金と減点対象となる。
これは明らかに中国の法律の欠陥部分であり、庶民は従うしかない。
また中国の人口は日本の約10倍いる。極論を言えば、車なども全て10倍必要である。
特に都市部は道路のキャパシティに対する車の台数が、オーバーしている。
朝夕のラッシュ時に渋滞に嵌ってしまえば、歩いた方が早いほどである。
そのため“十戒現象”を起こすことで、自分自身に不都合や面倒が生じたり、
他で交通事故が発生し、新たな救急患者がでたり、さらには道を譲るスペースがなく、
行き場のない車が逆に立ち往生してしまうことになる。
時として、私にとっての「常識」は、時として相手の「非常識」にもなり得る。
つまり「動かない」ことで、“二次災害”を防いでいるとも言えるのである。
話しは少し飛ぶが、韓国では食事中お椀を持ち上げることはタブーであり、
日本でいう「犬食べ」がマナーとされる。
また説教中、注意をしている相手の目を直視してはならず、目線をそらす必要がある。
このお互いの「常識認識の相違」で、新人中国人教師と留学したての韓国人生徒が、
大喧嘩している場面に、何度も出くわした。
話しを戻そう。
自分が今までの人生で培ってきた「常識」や「暗黙の了解」「受け手が察知しろ!」は
ひとたび他の人に行動の主導権が移ると、それはもはや異なる可能性が大いにある。
文化や国・地域を跨ぐと、その可能性がさらに大きくなる。
特に日本は、海外に比べると民族が複雑ではなく、学校でも「協調性」を教え込まれ、
「違う」「反対」「少数派」と言う独創性に排他的で、主張しづらい国である。
そんな単一的な社会において「違うものを理解し、受け入れる」というのは、
もともと非常に難しいことではないだろうか。
今後グローバル化が進み、他国との交流も盛んになる中で、
「異文化理解」を高らかに主張している今、ふと立ち止まって考えたい。
本当の「異文化理解」とはなんだろう?
これに関しては24カクさんが、非常に素晴らしい記事をお書きになっているので、
ぜひそちらをご覧いただきたい。
偉そうに書き連ねてきたが、10年以上も中国で暮らす私にとっても、
異文化を理解し、受け入れていくというのは非常に難しく、日々試行錯誤である。
また自分の中で予想していた相手の反応が、全く逆と言うことも多々あり、過去には
判断基準が定まらずブレが生じ、自分の価値観に自信が持てない時期も経験した。
私の「常識」で判断し、傷つけられた、腹立たしいと思っていても、
相手の「常識」ではそれは当たり前で、ごくごく普通の行動だったりもする。
一例を挙げれば、結婚したばかりの頃、義母が私の家事の負担を減らしてあげたいと、
後で洗おうと避けておいた私の下着を洗濯し、キレイにたたみ、タンスに収納し、
「あの生地は良い」「その色が素敵」と評価までいただいた。
しかし私にとっては顔から火が出る程のことで、二度目がないように申し出た。
中国の家族からは「『あなたのために』という母の愛が分からないのか」と激怒され、
「愛がない!」と言われたときは、「これはすごいところに来てしまった」と
ひとり枕を濡らした夜もあった。(その後話し合いで解決済み)
そして北京で留学、上海で就職をし、中国を理解しているつもりでいた私にとって
本当の意味での「異文化理解」が始まった出来事でもあった。
その後「常識のずれ」を経験するたびに、ある“習慣”を意識し、実践してきた。
それは、「自分の考えと、全く逆(違う)発想をしてみよう!」という思考回路だ。
つまり冒頭で紹介した救急車のように、「動く」に対して「動かない」という選択肢、
「恥ずかしい下着でさえも、話題にできるほど本当の娘のように接したかった」など、
想像できるようになることで、相手の行動に目くじらを立てることも少なくなり、
異文化で暮らすことのプレッシャーから解き放たれ、だんだん楽になってきたのだ。
このことを今改めて振り返ってみると、分かったことがある。
異文化を理解し受け入れていくことは、結局は自分自身を理解し、受け入れること。
「人とは違う」ことを認めることで、一番楽になったのは「自分自身」だった。
中国は10月1日から国慶節で7連休が控えており、多くの中国人が海外旅行にくり出す。
関西国際空港連絡橋の完全復旧は来年GWの件や、北海道地震などの影響は少なく、
日本が初めて海外旅行予約先でトップを飾り、期間中はより多くの中国人に
出会う機会があるだろう。
自分とは違う「常識」で行動する彼らを見て、排他的になるのではなく、
「それが彼らの文化かもしれない」「そういうやり方もあるのかもしれない」と
少しでも発想を変化できたとすれば、それはとても素敵な異文化理解であると同時に、
自分の文化、さらには自分自身のアイデンティティを認めることにつながる。
私はそう強く、強く信じている。
追記:もちろん救急車は一生利用しないにこしたことはないが、やむを得ずという状況があるだろう。しかしご覧いただいた通り、一分一秒を争う状況の場合、日本では助かったかもしれない命が、中国では…、という場合が大いにあり得るため、旅行や出張で中国にお越しの際は、くれぐれも細心のご注意を! また日本と違い、救急車利用は有料で、結構な金額であることもお忘れなく!
ただ中国はプロジェクトAがダメなら、プロジェクトBが準備されている国でもあるため、本当に一刻を争う緊急の場合は交通警察に掛け合うと、救急車が通る道の信号をすべて緑に変えてくれる、と言う話しも耳に挟んだこともある。アメリカや日本のように、まだ法治国家としての機能が完全ない中国は、「有困难找警察(=困難があれば警察を尋ねよ)」と言う言葉があるように、何かあれば警察に駆け込むのも一つの手のようである。