まもなく9月。こちら中国は入学、進級の時期である。
この時期になると、自然とよく思い出す留学時代の喜怒哀楽。
その中でも、脳裏をよぎっては居座り続けるあの良き思い出。
初めて感じた「中国の家族」ーーホームステイ時代。
今日はその思い出について話したい。
留学も季節が一巡した頃、私は非常に焦っていた。
中国語が相変わらず、全く上達しなかったからだ。
中国語学習歴や、中国滞在歴を聞かれるたび、ビクビクする日々。
「そんなに中国にいるのに、そのレベル?」と言われることへの恐怖。
「明日こそ教科書も全部捨ててしまおう」「明日こそ帰国のチケットを取ろう」。
仕事も辞め、裸一貫で飛び込んだ中国。
このまま帰国すれば、本当に何も残らない。27歳、ただの負け犬。
悔しくて、情けなくて、毎晩そんなことを思いながらベッドに入った。
毎日必死だった。
そんなある日、図書館の掲示板の前で友達と待ち合わせ。
「仕事募集」「家庭教師します」「相互学習者募集」等の張り紙が、掲示板に所狭しと
貼ってあった。
時間潰しにぼんやり眺めていた先に、たまたま目に飛び込んできた文字。
「ホームステイ募集!」
「中国語が少しでもうまくなりたい!」
ただただその思いで、すぐさまその張り紙をもぎ取り、
奮える指で携帯電話の番号を押し、見ず知らずのホームステイ先に連絡を取った。
今から思えば、「チャレンジャー」という一言では語り尽くせないほどの大博打。
あの頃の私は、「恐怖」や「不安」という身の危険の思考回路が止まってしまうほど
自分自身を追いつめ、焦っていた。
ホームステイ先は、
40代男性ウさん(奥様とは死別)+ 10歳の娘さん明明 + 60代の母、麗さんの3人家族。
先に結論から言えば、想像するような身の危険は全くなかった。
約半年間ちょっと、家族には紳士的、良心的に接してもらい、本当の家族のようで、
中国人の生活を実際に肌で感じる、かけがえのない経験をさせてもらった。
後で知ったのだが、私をホームステイに受け入れたのは、奥様の治療費で膨らんだ
借金返済にあてようとしてのことだった。
ホームステイ料は、光熱費+食費込の2000元/月(=約3万円)。
当時学校の宿舎ではなく、外での賃貸相場は2000元~5000元ぐらいだったため
光熱費+食費込では、かなり抑えられた金額だといえる。
家族は私のことを、「阿信(=おしん)」と呼んだ。
元の部屋から5㎞離れたホームステイ先は、エレベータなしの6階部分。
真夏の猛暑の中、たくさんの本も詰め込んだ10㎏以上の段ボール10箱の全荷物を、
引っ越し業者にも頼まずに、1箱ずつ自転車の後ろにくくりつけ、
その道のりを往復し、一人荷物を抱えて6階まで上り下りする姿が、
まさにおしんだったそうだ。
戸惑うことも多かったが、毎日中国人と中国語が話せる喜びに浸る毎日だった。
そんなホームステイも3か月ほど経った頃、
乾燥する北京の気候になれず、また作文大会への原稿を書くため数日間徹夜したため
咽頭炎にかかり41度の熱が3日間続いた。
あいにくウさんは宿泊出張中。
お母さんの麗さんは、足が悪くほとんど家から出られず、明明はまだ小さい。
高熱でうなされ、立ち上がれないどころか、頭がガンガンして、
耳元で「バーン、バーン」と交響楽団のシンバルが響き渡るのが聞こえた。
3日目、目の前が真っ白になってきて、意識が遠のいていくのが分かった。
「あぁ、このまま中国で死んでしまうのか。せめて日本までたどり着きたかった」
両親と故郷を思い、自然と涙が流れたが、
その涙を知る人も、拭いてくれる人も、誰一人いなかった。
シンバルの音で眠れず、ぼやける月を見ながら長い夜を過ごしていると
物音一つしない、丑三つ時にふと、ドアのノックがかすかに聞こえた気がした。
空耳まで聞こえ始めたか、と思っていると
「おしん、おしん!大丈夫か? おしん、入るぞ」という声が確かに聞こえる。
ウさんが、心配して仕事を切り上げて戻ってきてくれたのだ。
どうやら明明が、ウさんの携帯電話に連絡を入れてくれたらしい。
後でウさんに聞いた話だが、あの涙を明明が気づいてくれていたのだ。
ウさんは私の額に手を当て、やつれきった私の顔を見て「こんなになるまで!」と言い
「でも、もうきっと、病院に行けるほどの体力は残ってないだろう」と言い残し
部屋を出て行った。
後姿を見ながら、「終わるんだな」と思っていると、
しばらくして、ウさんが「手を消毒してきた」と言いながら、部屋に入ってきた。
「解熱のツボがあるんだ。妻もよくこうやって熱を出しては苦しがったんでね」と
私の足をマッサージし始めた。
「眠れるなら眠りなさい。起きたらきっと熱が下がっているから」という言葉も遠く、
「目をつぶっていなさい」と瞼を抑えられ、閉じるよう促された。
これでもし何か起こっても、もう抵抗する体力も残っていない。
後は運命を天に託すしかないなと思い、目をつぶった。
ふと、鳥が鳴く声で目が覚めると、辺りは明るくなり始めていた。
「起きたか? 体はどうだ?」と足元から声がして、
ウさんがまだ、足をマッサージしてくれていることに気が付く。
まさか一晩中?と思い体を起こそうとしたとき、まだ寝てなさいというサインと共に、
「マッサージが効いたみたいだ。顔色も少し良くなった。熱の赤みが取れたよ」
と言い、しばらく手を止めた後
「病気で苦しんでいる姿を見るのは、もう妻だけで十分」そう言って空を眺めた。
あたりが完全に明るくなった頃、
「何か食べた方がいい、母がおかゆを作ってくれたから口にしなさい」と
ウさんがドアを開けると、明明が白粥の上澄み液の部分を持ってきてくれた。
家族3人に見守られながら、飲んだ白粥は今まで口にしたことがない特別な味がした。
言葉にならない思い。
やっとの思いで、感謝の気持ちを伝えようとすると
「家族が病気をしたら、おしんだってこうするでしょ。御礼なんていいのさ。
さぁ、もう少し眠って体力を回復しなさい」と言って、早々と部屋を出ていく家族。
目から流れる熱いものを、今回も家族は知ってくれていた。
決して一人じゃなかった。
あれからもう十数年。
ウさん一家は幸せに暮らしている。
と書きたいところが、正直今、どこで、何をしているか、実はわからない。
なぜなら、当時ウさんが付き合い始めた彼女が、私の存在を嫌がり、
ウさんは彼女に携帯を取り上げられ、私は彼女に目の前で連絡先を削除された。
それを機にウさんは私の身を案じ、ウさんの友人宅に私を託すと同時に
「万が一のことが起きないように、おしんからは連絡はしてはいけない」と
何度も釘を刺された。毎日ウさんからの連絡を待つしかなかった。
新しいホームステイ先も、ウさんの家族のように、とてもよくしてくれた。
ただ、時折ウさんのことを聞こうとしたが、いつもはぐらかされ
結局教えてもらえたのは、ウさんが故郷である山西省に戻ってからだった。
北京へは、大学の同級生だった奥様が北京人ということで
結婚を機に北京に移り住んだらしい。
ただ奥様が亡くなった後、治療費のための借金返済をしながら、物価の高い北京で
生活し続けるのは困難を極め、北京の家を売って借金を返し、
親戚や友人のいる故郷に戻ったとのことだ。
実は、紙に書き留めてあったウさんの携帯番号に、一度だけ大学の公衆電話から
電話をかけたことがあった。でもすでに時は遅し、携帯番号は解約されていた。
私が今日まで中国語を続けて来たのは、
大連で出会った大学生の彼女たち、そしてこのウさんと家族に、
まだきちんと御礼が言えていないからだと思う。
中国の方に、私は本当にたくさんの「感謝」という負債がある。
自分の気持ちを自分の言葉で伝えるために、語学を勉強しているというのに
中国語もたくさん練習して、あの頃の気持ちに“利子”もつけて返せるはずなのに、
相手がいない。返せない、伝えられない。それが果たせないのは、非常に悔しい。
だから溢れる想いや感謝は、思ったその時に伝えてほしい。
私のように「感謝負債者」にならないためにも。